今年のデザイニング展で行っている展覧会「NEW VALUE DESIGN」。そこに、コレクターとして世界的に有名な福岡在住のデザイナー/永井敬二氏の、コレクション第1号になるはずだった椅子を展示しています。当時手に入れることができず、40年かけて探し続け、昨年(2010年)12月にようやく手に入れたものです。「私にとって、もの探しの探偵ごっこの過程で出会う人や、交わされる会話が大切なのです。」と語りながら、永井氏が教えてくれた、椅子を巡る40年の出来事を少しだけ紹介したいと思います。
椅子との出会い
永井氏は高校卒業後、昭和41年に岩田屋の関連会社に入社する。別の関連会社のNIC(ニック:日本初のインテリアショップ)のメーカーズルームにこの椅子を真横から撮影した写真のパネルが掲示されており、それを見て、「この椅子が欲しい」と思ったという。「天童木工」で製作された椅子だということがわかり、その会社に連絡を取り、椅子のことを問い合わせると、「ある建物のためにデザインされたものだが、まだ倉庫に在庫があるはずだ。」という回答があった。しかし、倉庫を探しても、あるはずの椅子が見つからずに、当時、手に入れることはできなかった。ただし、その椅子が昭和32年(1957年)に、建築家/丹下健三が、自身が設計を手がけた「墨会館(艶金興業株式会社の事務所/愛知県一宮市)」のためにデザインしたものであることがわかった。
斎藤邸
それから8〜9年後、とある民間金融機関が発行している「マイホームプラン」を眺めていると、「お宅拝見」というコーナーで紹介されていた「斎藤邸」という個人住宅のリビングに、この椅子が並んでいるところを目にする。早速、電話番号案内で設計者である斉藤英彦さんの連絡先を調べ、そして、「椅子を一脚わけていただけませんか?」とお願いするために、直接斎藤さんのお宅に電話をかけることに。電話をかけるとご主人が対応され、雑誌でご自宅が紹介されているのを拝見し、リビングに置かれている椅子のことを伺いたいと思って連絡をしたと伝えると、「この椅子はとても丈夫で、子供たちが乗って遊んでもビクともしないんですよ!」と、とても嬉しそうに話して下さったという。その愛着をもって語られる声を聞き、とても「その椅子を一脚わけて欲しいのですが…」とは、とも言い出せなかったそうだ。
再び電話をかける
それから20年後(初めて椅子を目にしてから30年後)、どうしても椅子のことが忘れられずに、再び斎藤さんのご自宅に電話をかける。以前連絡した際にお子さんが小学生だと仰っていた。「お宅拝見」には、この椅子が2脚写っていたが、あれから20年が経ち、もうお子さんたちも大きくなり独立されている頃だろう。「今ならば、1脚だけならば、わけてもらえるかもしれない…」と考えたという。2度目の電話には、奥さまが出られた。そして、20年前に一度電話を差し上げたことがあること、その際にご主人から椅子の話しをうかがっていたこと、また、とても嬉しそうに椅子について語られたこと、再びお話ができたらと思い20年ぶりに連絡したことなどを伝えた。そうすると奥さまから「主人が聞いたらとても喜んでいたことでしょう…」という言葉が返ってきたそうだ。ご主人は、5年前に他界したのだという。そして、ご主人が以前3年ほど丹下健三さんのもとで働いていたこと、その後ご主人が設計し自宅を建てたこと、新しい家に椅子がないのは可哀想だと、懇意にして頂いていた天童木工の担当者が、新築祝いの品として、椅子をプレゼントしてくれたことなど、その椅子や家、家族の歴史をいろいろと話してくれたそうだ。そうして、2度目の電話でも、椅子をわけて欲しいと言い出せなかった。2010年12月
2度目の電話から10年後、昨年末に友人とヨーロッパを旅行中、1通のメールを友人が受信する。「永井さんと連絡をとりたい」という主旨のメールだった。実は、斎藤さんのご自宅に2度目の連絡をしてから少し後に、友人を介して墨さん(丹下健三が設計した艶金興業株式会社の創業者)のお孫さんと知り合う機会があり、メールは彼からのものだった。コペンハーゲンのホテルでそのメールのことを知った永井氏は、すぐに日本に連絡をした。すると電話に出た墨さんは「実は事業縮小に伴って、墨会館を手放すことになった。この建築は丹下健三さんの代表作であり、建築物は文化資産として行政が引き取ることになったのだが、中で使用されていた什器などはいらないと言っている。12月10日に建物を行政に引き渡すことになっており、その前日までに引き取りに来て頂けるならば、椅子をお譲りすることができる」と答えたという。そして、急いで帰国した氏は、大阪より車を出してもらい、現地に椅子を引き取りにいく。念願の椅子を車に積み込み、お礼を伝え、現地を去ろうとしたときに、椅子の製作図面が残っていることがわかり、その写しを頂くことに。頂いた図面には全て、「hide saito,」のサインが入っていた。彼が40年かけて探し続けた椅子は、斎藤邸のご主人、「サイトウ・ヒデヒコ」さんが、丹下事務所へ勤めていたときにデザインしたものだったのだ。
さいごに
永井氏は、この椅子を手に入れるまでの物語を語った後、「ご主人が設計に携わった墨会館が文化財として保存されることになったことや、当時ご主人が描いた図面が残っていたことを、斎藤さんの奥さまに伝えたい」と、いつか斎藤さんの奥さまに会いにいくつもりだということを、最後に教えてくれた。
[TEXT|井手 健一郎]