いま、沖縄でふたつのプロジェクトの設計を進めています。最初のプロジェクトに取りかかってから、かれこれ2年ほど経つのですが、設計者として「沖縄」という地域に関わるようになって考えたことを、少しまとめておこうと思います。
高校野球|秋季大会|沖縄
はじめて沖縄に訪れたのは、高校1年生の時(1993年)でした。高校で野球をやっていたのですが(甲子園ではなく、神宮球場を目指す軟式野球なんですが)、毎年九州大会は各県が持ち回りで開催することになっていて、その年の秋季大会が沖縄で開催されることになって。硬式も軟式も全出場者がそろって開会式が行われるんです。だけど、軟式の試合は、硬式の全日程が終了した後に行われるので、開会式から第一試合まで数日間のタイムラグがあってですね(笑)。その日程が部活のメンバーに知らされてから、みんなでいろいろな自由行動の計画を立てていたんです。でも、「高校生(私立男子校)」+「沖縄」+「数日間の休日」というキーワードが揃うと、それはもう大変なことになるなと、部活動の顧問も考えていたようで。沖縄に到着してから顧問独自に作成した「旅の時間割」が渡されて、見てみると「海水浴」という項目はひとつも見当たらない(笑)。開会式の次の日から血気盛んな男子高校生(総勢50名)が、ガイドさんもいない貸し切りバスに詰め込まれて、行き先は滞在していた那覇市より南の方なのだと。顧問曰く、「大人になったら彼女や家族と沖縄にくることもあるだろう。リゾート(北の方)に行きたいならその時に行けばいい。ただ、第二次世界大戦の最後、沖縄で何が起こっていたのか、その歴史を知っておくのも悪くないだろう。」と。その時に沖縄を訪れて以来、大学に入ってからもプライベートで毎年のように訪れるようになっていて、今思い返してみると、あの高校時代の体験はとても貴重だったなと思うんです。
沖縄|現在の風景|スラブヤー
2011年4月に、共通の知人を介して、あるご家族から住宅設計の依頼をいただき沖縄を訪れました。それまでも度々訪れていたのですが、「設計者」として沖縄を訪れ、意識的に沖縄のまちのカタチや歴史などを調べるようになったのは、この時が初めてだったように思います。「沖縄」と聞いて連想するのは、ほとんどの場合、海や空など独特の気候条件や豊かな自然から連想される風景なのではないでしょうか。でも、飛行機が那覇空港に着陸する際に、その窓から見える風景はそれとは少し違っていて、海岸線近くから丘の稜線まで、コンクリートの白い箱が高密度に集積した風景なんです。調べてみると、那覇市の人口密度は、首都圏と近畿圏を除いた地域としては最も高く、全国的に見てもトップ10に入るほど、都市化が進行している。「スラブヤー」といわれるコンクリート構造にフラットな屋根が載せられたその建築形態は、終戦後、1972年に沖縄が日本に返還されるまでアメリカによって統治されていたことと、とても深い関係があるんです。戦後にでき上がった風景。
琉球|戦前|ヌチジャー(貫木屋)
昔の人たちは、地域特有の多様な気候条件から身を守って生活を楽しむために、まちや住宅にいろいろな設えを考えていました。伝統的なまち並みや木造住宅に残るカタチや様式から、いまでも過去の知恵を知ることができます。路地からの視線を遮りながらも緩やかにつなぐ「屏風/ヒンプン」と呼ばれる石垣や、「雨端/あまはじ」のように大きく屋根をかけてできた軒下の空間。 戦前の沖縄の住宅は、木造軸組(木製の柱や梁で構成された)の「ヌチジャー(貫木屋)」と呼ばれる木造平屋の住宅がほどんどでした。庭先に石垣や屏風(ヒンプン)で囲いをつくり、その中に建てる木造の建物には、重たい琉球瓦をのせた大きな屋根をかける。そうやって、日差しや風から身を守っていました。「石垣」と「屋根」で守られた家でした。その屋根の下に建具や雨戸、蚊帳などを設けることで、自分たちの手で、室内環境をコントロールしていました。中には「備瀬」のまちのように、まち全体をフクギの木で囲い、厳しい気候条件に耐えようとしたまちもあります。そもそも、沖縄のように高温多湿の地域では、「コンクリート」のような湿度調整を行わない材料は不向きなはずなんです。でも、戦後の沖縄ではコンクリートが急速に普及していたため比較的安価に入手することができ、また、戦後に建築された木造建築の大半が大型の台風によって大きな被害を受けたことなど、いろいろな要因が重なり、現在の風景をつくることになった。伝統的な木造建築をつくる技術者も地元産の木材もしっかりとあった。でも、多くの優秀な人材と技術、材料を、戦争によって失ってしまっていて。
その地域で生まれ育っていない人の視点と役割
昨年、非常勤講師をやっている九州工業大学で、学部2年生の住宅設計課題を担当することになり、恩納村で進めているプロジェクトを対象敷地として住宅を考えてもらいました。その授業の最初に、ボクたちが沖縄で設計に入る前に調べたこと(沖縄の気候風土や住宅建築の歴史のことなど)を一通り説明して、学生のみんなに沖縄についてリサーチしてもらいました。「それぞれが沖縄の特徴だと思ったことを調べて発表して下さい」、と。中には、「”わ”ナンバーの車が多い」とか、「バヤリース(オレンジジュースの、)の成分が違うらしい!」など、住宅設計とは毛頭関係なさそうな調査結果を堂々と述べる人もいましたが(笑)、「長い歴史の中で中国・米国・日本と、さまざまな国によって統治された経験が、いまの沖縄の多様な文化の根底にあるのでは」や、「植生だけではく土質を見比べてみると、日本よりも台湾やそれより南の地域と近しい」など、それぞれの視点で見た、「その地域の良さ」を見つけてくるんです。人の数だけ視点や解釈があって、とても面白かった。ボクたちのような「その地域で生まれ育っていない」技術者の役割は、その地域で生まれ育った人たちが「当たり前」だと思っていることに「それ、素晴らしいことなんですよ」と、新しい解釈をすることだんだろうな、と。沖縄には、本土に残っていないものが、忘れ去られてしまったものが、建築として、まちとして、風習として、カタチや関係性の中にたくさん残っているから、こちらから知恵や技術を持ち込むのではなくて、その地域の古いものや新しいものの価値を一度解体して再構築する。そうやって考えて設計したものが、結果として、沖縄のあたらしい風景の一部になってくれたらなぁ、と思うのです。